2020-09-29 Tue 18:25
この世にオギャーと生まれ。ちょうど60年経ちました。中国の暦では、ちょうど一周、還暦というそうです。
それはつまり、ぼくに残された時間は、とても短いという意味でもあります。もちろん、それを不幸なことなどとは、全く思っていませんが。 自分の人生の終わりについて考え始めたのは、多分、中学の頃だったと思います。あの頃は、ただ茫漠とした思いだけでしたが、ただ自分の人生にははじめと終わりが、明確にあるのだということはわかりました。 最近、宇宙の自然状態ということを考えます。 多分多くの人は、宇宙とは、時間と空間が広がる世界で、それが宇宙のすべてだと考えるでしょう。でも僕は、そうではないのではないか、と考えています。 時間と空間が広がる世界というものは、言わば広大な海の中にできた、とても小さな泡のようなものではないかと僕は思っています。 そもそも私たちが存在していると信じているこの世界は、138億年前に時間も体積もない一点から、光の爆発によって始まったのだと考えらています。 つまりビッックバンが起こる前には、時間も空間もない世界があった(というかなかった?)ということになります。 「無」は真空とは違います。真空には空間と時間があり、実際にエネルギーが存在しています。とにかく何もないのが「無」であり。それは古代インド哲学では、ナーダと呼ばれていました。 なんにもないなんにもない、まったくなんにもない。という「はじめ人間ギャートルズ」のオープニングソングは、そのことを謳っています。 つまり宇宙とは本来、何もないのが自然だということです。 我々が宇宙と呼んでいる空間と時間の広がりは、 渺渺たる無の中にたまたま生まれた、ささやかな泡のようなものなのではないでしょうか。 ぼくは、「無」のなかに、たまたま生まれた宇宙という、ささやかな泡の中の無数にある銀河のひとつの、無数にある恒星の一つ、太陽の重力に捕まえられている、地球という星の中にある、日本という小さな国のさいたまの岩槻の、高野秀樹ということになります。 まあ、はなからどうでもいい話ではあるのですが、死が無になることだとするなら、それはつまり、宇宙の自然状態にもどることにすぎないのではないか、そう言いたかったわけです。 死とは、ただそれだけのこと。でも、痛いのはやだから、それはならないように、お医者に頼もう。 スポンサーサイト
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